思いがけず心に刺さってしまった iaku『粛々と運針』

中年と呼ばれる年齢になり、一人で生きることにもすっかり慣れてしまい、気づけば他人を必要としなくなっておりました。もともと情に薄い性分もあり、離れた実家に住む両親の顔も、もうずいぶん仕事を理由にして見ておりません。そんななか、縁あって観劇するにいたりました。
ミニマムな舞台上に登場するのは、一組の夫婦、一組の兄弟、チクチクと時を刻むかのごとく手仕事をし続ける二人の謎めいた女性。六名の男女は交互に立ち位置を変えながら、笑いを交えたテンポのよい会話を繰り広げていきます。夫婦は猫について、兄弟はとある男性について、そして手仕事の女性たちは、命の象徴ともとれる桜の木について。
一見どうでもよさそうな夫婦と兄弟の会話は、やがて「どうでもよくなさそうだ」に変化していき、散りばめられたいくつもの点が、精霊のような謎めいた二名の女性たちによってひとまとめに紡がれていき、ついには登場人物お互いの内面を吐露する瞬間を迎えます。
夫婦は、ほしくなかった子どもができてしまったことについて。
兄弟は、母親が死んでしまうかもしれないことについて。
不安とエゴをぶつける者と、変化に順応した大人であろうとする者に分かれてぶつかり合う。別々と思われた二組は突然に交差するのですが、共感を抱く登場人物たちの中、個人的に一番心を重ねたのは、変化を恐れている兄の一でした。
母は死ぬだろうと覚悟を決めている弟に反し、フリーターで実家暮らしの兄は、母は死なないと信じ込もうとする。だからこそ、危篤の知らせを受けたとき、動けなくなってしまう。行くのが恐ろしい、現実を目にしたくないからだと察した瞬間、私の目に涙があふれてしまいました。
老いて弱っていく両親を目の当たりにするのは、大人になりきれない人間にとって切ないものです。まだ子どもでありたいという幻想から目を覚まさなくてはいけないのですから、やりきれません。
いい年をして情けないことに、まだ子どもでありたいという思いから抜け出せず、実家から逃げていたということ。大人になったと大人のふりをしているだけで、まだ子どもだということ。一人に慣れたからではなくて、両親の老いた姿を見るのが怖いだけだということ。そのことを思いがけず、劇中の最中に突きつけられてしまいました。
この一撃は、きつかった。でも、いつかは気づくべきことであったし、立ち向かわなくてはいけないことでもありました。

変化していく周囲を避けるのではなく、身をゆだね、あるがままにそれらを受け止めていけばいい。粛々と、針を動かすように。そのうちに、自分のことばかりではなく、周囲のことを考えられる人間に、大人になっているかもしれない。きっと大丈夫だ。そんなことを思いながら、帰路につきました。

この作品を観劇して、よかったです。少々きつい気づきに感謝。お盆休みには実家に帰ります。
ありがとうございました。

6/24(日) 13時 シアターZOO

投稿者:K.M(40代)

text by 招待企画ゲスト

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